暮らしが成り立つ土台があって、ハレの日ができる。
暮らしが成り立つ土台があって、ハレの日ができる。
限界集落に嫁いだ元新聞記者が
限界集落になりゆく
むらで育った夫に聴く15
圭子:
今、畑山で集落の集まりをしたら、
10人以上は集まるよね。
50人しかおらん集落で
参加率は高いと思うが。
でも、大半が70~80代。
その年齢の人が
地域の主な会合に集まって
意見を言うっていうのは、
田舎育ちの私にも不思議な光景やったよ。
私の田舎では、
地域の決め事は男の人で、
20-40代が出席するもんやったけん。
跡継ぎがおらんなって、
それが崩れ始めてはおったけど。
靖一:
守るだっけで考えると、
一定の年齢を超えた人とともに
衰退に付き合うことになるとも思うがね。
自分に時間が限られたことであれば、
変な目で見られたとしても、
新たなことを起こすことに考え方が変わっていったがね。
ただ、お金を稼ぐ仕組みがドンとあって、
儲かるじゃないかっていうことを
見せられたらすぐにシフトするかもしれんけんど。
稼げない間は、変わったことをしゆうとしか見られない。
最初は守ろうとしたもんが、
地域として生き残るために
創造するっていう考え方へシフトしていった。
とはいえ、24、25歳のころは、
自分を追い込むことではなかったので。
ちょっと時間があれば、
川で魚を釣りにいったもん。
とっても大きな責任感とか、
誰かのためにって思うたら、
押しつぶされてたやろうと思う。
それなりに空いた時間を
遊ぶということがあった。
若い頃はね。
でも、お客さんや、従業員ができてきたことで、
遊ぶ時間がなくなってきた。
趣味が仕事に変わっていったということもあるけれど。
圭子:
うちら二人ともに
仕事が趣味みたいなもんやもんね。
しかも、お金稼ぎが下手…。
それでも、畑山に入れあげてる(笑)
靖一:
バカのように
なんで畑山にこだわるのかっていうと、
川で遊びたかった、
山で遊びたかったっていうのが根底にあるがよ。
自分の自慢のふるさとがなくなっていくのは
すごく悔しいと思った。
圭子:
私も畑山で遊ぶ時間が欲しい!!
靖一:
・・・
「畑山に来な、食えんぞ!」
っていうものを作りたかった。
突発的な、
珍しくて貴重なものよりも、
産業、事業ベースで考えた
畑山ならではのものを作らんといかんと思うとったがね。
圭子:
「住民はおらんなったけど、
週末に帰って来て、
イベントをしたりする」
っていう地域が新聞に出たりするやんね。
良い地域やなぁって思うことがあるけど、
畑山はそれを20年くらい前に経験して、
途絶えて久しいってことでね。
靖一:
そうやね。
そういう経験を経ての
畑山の今ながよ。
うちに視察に来た人の中には、
出身者を呼び戻して
イベントをしたらいいっていう人も
やっぱりおるけど、
地域づくりっていうのはそういうことではないがよね。
暮らしが成りたつ土台があって、
初めてハレの日を創ることになるが。
土台も無いのにハレの日ばかりを
追い求めてもいかんのやないろうかね。
圭子:
イベントも大事やけどね。
でも、今の畑山で
私らにその余裕はないよ…。
時々、「イベント、イベント」って
地域づくりを掲げる人らが
言うてくるのが
本当にうっとうしい…(-_-;)
靖一:
とはいえ、当時の俺は、
青年団って、
「地域を守る」
「地域を盛り上げる」
手立ての一つやと思いよったね。
地域おこしはボランティアでなんとかなると思いよったもんね。
今は、ボランティアで地域おこしは
何ともならんことがわかったけど。
圭子:
経験したから
分かったがでね。
靖一:
自分の時間を犠牲にしても
やりたかったことながよ。
でも明確な理由は語れんくって、
「なんで青年団しゆうが?」って
聞かれた時に
「好きやき、しゆうが」
としか答えられんかったね。
それでも、
「地域を守る」
という気持ちがあったがやろうね。
その時の自分のやらないかん役目やと
思うちょった。
地域を繋いでいくため、
とか、
地域貢献とかね。
圭子:
今とは違う考え方よね。
靖一:
今、考える地域の自立のあり方
というんは、
まだまだ考えてなかったね。
若いもんの役割をただやる、
ただ守る、という。
まだまだ従業員も雇ってはないし、
自分の仕事よりも、
青年団活動を優先しちょったきね。
継承されてきた行事を続けることが
地域の繁栄、活性化につながるはずやと。
圭子:
青年団はもうのうなったけど…
靖一:
青年団長を
俺は、
同級生にバトンタッチしたがね。
その次が年下に、
下にっていっていったら、
5-6歳下で次に渡す人がおらんなったがね。
一番下の子はおったけんど、
その子に団長をさせたら、
周りは皆、年上になってしもうて、
やりづらいやろ。
で、30歳過ぎちょったけど、
最後が自分が引き受けることになったが。
もうそのころになったら
消化行事でしかなかったがよ。
名前だけの青年団。
まだ小中学校があって
学校行事があったき、
青年団もなんとかあったっていう感じ。
週に1回は学校で夜、
バドミントンをしたりもしよったけどね。
他の集落からも、
バドミントンしに来た人らもおったがで。
まぁ、活動というのではなくなっとったき、
学校がなくなるのと同時期に、
青年団もなくなったね。
36,7歳になっちょったかなぁ。
最後に2−3年、
自分が団長して廃団にしたが。
でも、40歳前くらいから感じるようになった
切迫感っていうのは、まだなかったね。
まだまだ畑山暮らしを楽しみよったね。
町に往来する時は、
車に釣り竿乗せとって、
誰かが釣りしよったら一緒になって、釣りしたきね。
圭子:
私もそんな30代が過ごしたい!
靖一:
・・・
当時はまだ
自分が地域を背負うって
認識はなかったね。
結果的に背負うことになるのは、
44,5になってから。
親世代がそれぞれの役割ができんなってきて、
同世代は誰も残っとらんき。
民生委員であり、
農業委員であり、
農協の部会長とか、
地域の役目が全部集まってくるようになったが。