中学を卒業して。―限界集落に嫁いだ元新聞記者が、限界集落になりゆくむらで育った夫に聴く⑪―
圭子:
中学を卒業する時に
そのまま畑山に残るとか
進学とか、集団就職とかは
どう考えたが?
靖一:
中学校の先生は
「高校へ行け」
言うたけんど。
勉強自体が好きでもないし。
アンチ学歴みたいな気持ちもあったし。
家の経済状態も理解しとったし。
進学は無いやろう、と。
圭子:
畑山に残って働くっていう選択肢もあったが?
靖一:
5つ6つ上の先輩らの時代には、
営林署とか林業の会社とか
山の仕事があったけど、
自分らの時には
もう山のイメージからは外れちょったがやないろうか。
木材の輸入自由化も始まっちょったし。
植えたものを流れで
手入れしたり、のアルバイトはしたけどね。
圭子:
畑山への行政による
企業誘致もあったがでね。
靖一:
当時の市長が
畑山へ仏壇メーカーを企業誘致したがよね。
使うのはアガチスという安い材木。
ラワンとかね。
安い木材が頻繁に入ってきよったがよね。
林業は衰退しかけた頃やろうかな。
それでも、パルプを切り出すのは
評価が高うて、
親父らは出稼ぎから帰ってから、
そういうことをしよったね。
圭子:
お義父さんの仕事を
一緒にするってことにはならんかったが?
靖一:
「山の仕事へ入れ」とか
「跡を継げ」とか言われんかったね。
ただ、「靖一、手に職をつけぇ」
とは言いよったね。
まだ時代が、
手に職があれば食いっぱぐれがない
という考え方があったき。
同級生が安芸の町にあった
職業訓練校に行くって言うたき、
経費がかかる学校でもないし。
訓練校に入って、まじめに2年でつとめあげました(笑)
圭子:
まじめじゃなかったがやろ(笑)
それで、大工になったが?
靖一:
腕の良い大工さんという紹介で、
小松建築に弟子入りしたがね。
内弟子やけど、畑山から通うたが。
早く一人前になって
独立したい気持ちがあったがね。
親方は、俺より背ぇ低いけんど、
相当な力があったがやろうね。
俺らは二寸のかなばを出すのでさえ、
「フーン!」って力いっぱいで
カンナを引っ張ってようようやったのに。
親方は4寸の柱を1枚のカナバで引けたらしいきね。
圭子:
亡くなってはいるけど
今でも親方のこと好きでね。
息子(晃大)の名前につけるくらい
尊敬しちょったがやろ。