高知県の地鶏「土佐ジロー」専門店

はたやま夢楽
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同級生が町へ出て行っても、町へ行きたいとは思わなかった―限界集落に嫁いだ元新聞記者が、限界集落になりゆくむらで育った夫に聴く③―

 

前回のつづき。

 

単なる数字じゃなくて

それぞれの数には

家族が離村していったという現実がある。

1軒ずつ、靖一さんから思い出を

聴けば際限なくしゃべりだすだろう。

でも、ひとまず数で追ってみる畑山の歴史。

 

 

 

圭子:

人が急激に減ったのは、

小学生のころ?

 

靖一;

入学したときの同級生は13人おったけど

中学入学のときは男3人、女2人になっとったね。

中学校を一緒に卒業したのは4人。

そうやね。

小学生の時が一番減ったんやろうね。

 

小学校のときは

先生の娘が1人おったけど

あとは地元の人やったね。

学年があがるごとに

1人、2人と減ったんかな。

 

兄の中学校卒業と同時に

出て行った子もおったわいね。

 

圭子:

畑山の教育環境が嫌で

出て行った人もおったが?

 

 

靖一:

教育環境もあったのかもしれんけど

親の仕事がほとんどやね。

皆、山の仕事をしよったと思うけんどなぁ。

他に、畑山で働ける仕事ってなかったきね。

 

圭子:

海育ちの私には

山で働くっていうことがイメージしにくいんやけど

自営で稼ぐってこと?

 

靖一:

いや。

雇用やったと思うで。

町に出てからは

長野とか県外に出稼ぎに行くようになったとも

聞いちゅう。

出稼ぎをしてでも

地域に残るよりは

高度経済成長の町暮らしへの憧れもあったんやろうなぁ。

 

圭子:

町に出る時は、家を建てて出たが?

それとも借家?

 

靖一:

家を建てる余裕があって

出ていったわけやないきね。

借家で出て行く人が多かったね。

 

圭子:

靖ちゃんらの学年以外でも

同じように人が減ったが?

 

靖一:

小学校に入った時は、

小学1年~中学3年までで

100人近くおったと思う。

全学年で人は減ったけど

俺の同級生の減少率は際立っとったんかもね。

2つ下の健二らやと

そこまでは減ってないわね。

 

圭子:

お父さんも出稼ぎに行ったがやろ?

 

靖一:

俺が小学校4年ごろまでは

畑山で、炭焼きをしよったと思う。

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6年生の時には

長野に出稼ぎに行っておらんかったきね。

鉄砲水が出た時のことやけん、よぉ覚えとる。

すごいで。

時間雨量100mmを超すような雨が雷と一緒に降りよったき。

「家におるのが怖い」って

近所の一人暮らしのおばあがうちへ避難してきちょって。

俺ら兄弟と一緒に布団かぶって、

「なんまんだぶ」ってずっと拝みよった。

裏山から水が入ってくるようになって、

避難してきたうちの方がひどいことになっとった。

床上浸水してきて、

お母が「家が流されるき、はよう逃げないかん」

って呼びにきたがよ。

それで、外を見たら、そこへ土砂が来とって、

土間に置いてあったハガマが流れてきゆうのが見えた。

窓から飛び出て、

垣根の急なやぶを“どどどっ”と滑り落ちて、

道路まで出て。

「大変だ」「大変だ」ってことになったけんど。

それが小学校6年のとき。

親父は長野へ出稼ぎに行っておらんかった。

家の柱にあるヒビはその時の。

 

圭子:

いつもの脱線が始まった…(笑)

皆が出て行く中で、寂しいとか

自分も出て行きたいとか

思わんかったが? 

 

靖一:

街の魅力をようわかってないきね。

中学校の頃は、小遣いもろうて、散髪とかに町へ行ったけど。

その時に中華そばを食べて、

とっても美味しい食べもんやなぁ、

たまには食べたいなぁとは思うたけんど(笑)。

皆と一緒に行きたいというのはなかったね。

いまだに協調性の無さはあるんだろうな。

まぁどっかで置いてけぼりになるのは嫌やとは思うたかもしれんけど。

自分が行きたいではなかったね。

 

圭子:

靖ちゃんに協調性があったら

今ごろ、土佐ジローのお肉をこの味では

食べられなかったんやろうね(笑)

 

(つづく)

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