大瀬講演
靖一さんの講演禄です。
要約版は後日として、取り急ぎ、全文掲載しまっす。
pptを使っての発表+慣れてないため
話がずいぶん、前後してます。
読む分には、分かりにくい点もあろうかと思いますが
気を長くして読んでいただければ幸いです。
当日は、大瀬や石畳の人たちが
170人程度、お越しくださいました。
準備した椅子が足りないくらい…。
内子町長、教育長も来賓でいらっしゃり
最後まで聴いていただきました。
それでは・・・。
3月2日午後7時~大瀬自治センターにて行われた
『大瀬自治センター地域づくり研究大会』での講演禄です。
演題「限界集落『畑山』に生きる」
高知の山奥で引きこもり農業をしております小松靖一と言います。
「限界集落」という言葉は僕もあまり好きではありません。
何も無くなってしもうたけんど、僕の気持ちの中には、可能性ばっかり。
「今から始める」「地域を新しく作っていく」。そういう思いがあるので、限界と言ってほしくはないです。ただ、実際に地域の主だった役割が自分のところに集中してきます。その役割ができる人や、時間、体力が限られてきます。そういう意味では、「限界集落」なのかと日々感じながら、もう片っ方では、ゼロになれば、ゼロを直視すれば、「上しかないやろ」「それ以上無くなるものはないじゃないか」、そう思って頑張っております。
会社の名前が「はたやま夢楽(むら)」といいます。昭和29年の合併前には、畑山、尾川、栃の木という3つが一緒になって畑山村という自治体でした。昔のような自治体に戻るにはならないけれど、地域の自律をしていく中で、昔の畑山村のような意識、一つの自治体としての意識につなげたいという思いから名づけました。また、夢を楽しむような、楽しみの延長に夢をつかむようなイメージでもあります。
畑山という地域は、海沿いから40分くらいかかります。標高は180m。ガードレールのないところも相当あります。延長14㎞しかない3ケタの行き止まり県道なので、県の予算がつく見込みが中々立ちません。ですが、最近は、畑山温泉に来てくれるお客さんがおることで、観光道路という位置づけで、少しずつ待避所など道路の改修もされております。
畑山は盆地になっていて、平野部には水田やユズ畑が約7haあります。昔は、周辺に段々畑もありましたが、今はスギとヒノキに変わってきています。畑山村には、分校も含めて6つほどの小学校がありました。尾川、栃の木を合わせると数千人いた人口が今は200人くらいに減ってきております。最後まで残っていた畑山小中学校も平成8年に廃校になりました。
若いころ、大工をしながら、青年団に入って、「地域を守る」ための活動として、県道の空き缶拾いや神社の文化活動をやりました。「守る」ために、年寄りに代わって、自分にできることを一生懸命していたと思います。21歳の時には、青年団長を引き受けました。団員数は当時から相当少なかったがです。それでも、同級生や後輩何人かに団長職を引き継ぎしました。ですが、10年くらい経つと、団長をやる人がおらんなってしもうて、団長職が自分のところに返ってきました。僕の代で青年団を無くしてしもうたし、農協青壮年部畑山支部も僕が部長のときに無くなってしまいました。
地域から人が出ていく勢いは本当にすごくて。すごい現象がおきゆうなということを、子ども時代からまざまざと見てきました。でも、なんとなくそこに違和感というか、「なんで出ていくのか」と。青年団のころには、一生懸命地域を守るという意識しかなかったですけんど、結果的には10数年頑張っても地域を残せんかった。残せんていうことは、若い人におってもらえる環境をよぉ作れんかったということです。守るところから、攻めるために何ができるのかということを痛感しました。
大工で身を立てるには、人がおるところに出ないかんがです。畑山をどうにかすることはできません。そこで、半農半大工というか、27、28歳のころに百姓にウェートを移していくような時期がありました。守るところから、攻めるところへ。何か動きを興さないかんっていう風に変わってきました。腰痛になって、きつくなったこともあり、30歳くらいで大工を辞めました。
畑山で農業をしようと思っていましたが、もともと林業家計なので、飯米を作る程度で、農業を本格的にしたことはありませんでした。先輩にいろんなノウハウを教えてもらったりしながら、安芸市の奨励品目であった「シシトウ」をはじめました。でも、夏場のシシトウはすごく安くて、すぐに副業を考えないかんと思いました。
銀杏も植えましたが、商品価値はたいそうなもんじゃないし、収量もない。畑山を全部、銀杏畑にしても、大阪の相場は一円も変わらんな、と。当時、街の方で評判が良かった田舎ゴンニャクとか田舎豆腐みたいに、銀杏を加えた健康豆腐を作って、地域のオリジナル商品、特産品にならんやろうかと思うた時期もありました。
昭和63年、新聞記事で土佐ジローと出会いました。採卵用の鶏として高知県が開発したので、うちでも採卵用として飼い始めました。この前植えた銀杏を取り囲むように鶏小屋を作ったので、土佐ジローの飼育が始まると、春、芽吹いた銀杏をついばまれ、その年のうちに枯れてしまい、銀杏構想は、そこで無くなってしまいました。
土佐ジローの卵は、1個45円。売れたら本当に魅力的な商品ですが、産卵率が悪いがです。自然の中におったら気持ちよく生んでくれるかと思うたら、暑いいうて生まんかったり、冷やいいうて生んでくれんかったり。シシトウを作りながら、100羽くらいから始めました。産卵率が一番いいときで、毎日60個くらいの卵ができます。昼間の仕事が終わってから、夜なべして卵を拭いて、翌日、安芸の町へシシトウを出荷するのと一緒に持っていく。知名度もなく、売れんかった。でも、友人や知人に話をしたら、「それはええ」言うて、1個や2個買うてくれます。自分も顔が広いと思うとりましたが、3、4日すると行くところがなくなりました。「しょうがないな。明日にまわそう」と、持っていった6パックのうち、2パックを翌日に回すと、翌日は6パックが8パックに増えていく。1週間もすると、持っていくところがなくなる。最初買うてくれた人にタダで配ったり、後輩たちに押し売りをしたり。卵は、僕らよりか本山町、嶺北が先進地で、「1個45円で売らんと採算とれん」「値崩れを起こす前例を作ったらいかん」と言われていましたので、売るか、やるか、タダで試食してもらうか。百姓であって、職人であって、「ええもん作ったら、売れる」という気持ちで売りよったんです。それまで、営業のしゃべりや、物を紹介するようなのがすごく苦手やったので、営業ができんまんま。でも、配りよる内に肉屋の友達が見かねて、スーパーとかの営業先を教えてくれた。営業に行くことの意味や、行ったときの手ごたえとかを感じて、少しずつ営業を始めるようになりました。