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続・若者は荒野を目指す限界集落に夢を求め飛び込んだ「はたやま夢楽」

2011年12月「かがり火」寄稿
小松圭子

故郷で暮らしたいと願っていた。自分が生まれ育った故郷で暮らしたい、と。

 愛媛県宇和島市の半島部。遊子(ゆす)水荷浦(みずがうら)という漁村集落で生まれ育った。一歩、家を出れば、道路を挟んで海がある。家の後ろの山には「耕して天に至る」と表される段々畑が拓かれている。四季が移ろうまでもなく、日々刻々とさまざまな表情を見せてくれる故郷の自然。

 まばゆいほどに輝く海の中では小魚たちが、せわしなく泳ぎ、チヌやスズキ、イカが時折、姿を見せては、ゆったりと通り過ぎてゆく。冬には海面から湯気が立ち上り、風にあおられて潮が舞い上がる。花を咲かそうとする木々たちが、日ごとに幹の色を花の色に近付ける。人の力で動かすことのできないものを身近に感じながら、田舎暮らしを満喫していた。

 けれど、中学生の頃からだろうか、大人たちは「もう、ここでは暮らせない」と言い始めた。生業としていたハマチや真珠の養殖業が不景気に陥り、経営が困難な状況にあることは子ども心にも理解できた。ただ「勉強をして都会に出て行け」と言う大人たちの言葉が理解できなかった。というよりも、理解したくなかった。なぜ、数百年も暮らし続けることのできた土地を簡単に捨てよ、と言えるのか。なぜ、養殖業やむらにあるもので新しい道を探ることなく、私たちの世代からむらを離れなければならないのか。

 そんなことを思いながらも、高校卒業時に故郷に残る道はなかった。「4年したら絶対に帰って来よう」と胸に決め、東京の大学へ進学。平日は割烹の仲居や雑誌編集、事務職のアルバイトをし、休日は故郷に帰る道を見つけ出そうと、山形、高知、島根、九州……各地の農山漁村を訪ねた。そこには、土地に誇りを持ち、前を向いてむらの未来を語る大人たちがいた。でも、どこも我が故郷と似たような状況にあった。若者が暮らせるだけの仕事がないのはいずこも同じ。若者の帰れない故郷が各地にあった。

たくさんの出会いと教えを受けた4年間だったが、故郷に帰る道をつくり出せなかった。大学を卒業し、新聞記者として愛媛にまでは帰った。そして、農林漁業を取材する機会に恵まれた。養殖漁家、一本釣りや素潜りで暮らす漁師たち、ミカン農家、戦後の開拓地で暮らす人々。後継者のいる家はまれだった。全国的な少子高齢化に拍車を掛けた状況が当たり前のこととして受け止められていた。このむらはあと何年あるのだろうか。そんな思いを抱きながら、自分の故郷にも重ねた。

仕事の傍ら、休みは県内の農山漁村へ出掛けた。釣り、磯遊び、栗の収穫、そば打ち、イベントの手伝い、農家のお母さんたちとのお茶飲み会……。汗をかき、土地のもので作った料理を味わうことで、癒やされていた。自然と共にある農山漁村の暮らしは、私にとって幸せな空間であり、なによりぜいたくな時間だった。生活に不自由しない収入もあったし、記者としてのやりがいもあった。でも、心の空洞は埋められず、農山漁村で暮らしたいという思いを強めていた。

入社して4年半がたとうとしていた今年の6月、会社を辞め、世間で言われる「限界集落」に飛び込むことを決めた。大学時代に訪ねた農村の一つ、高知県安芸市畑山。700人いた人口が30年で70人に減ったむらだった。それから6年経った今は40人になった。でも、畑山には故郷にこだわり、自然に近いものを作りたいと「土佐ジロー」(鶏肉・鶏卵)を飼育している小松靖一さん(52)がいた。

安芸の市街地から山あいに約20km。安芸川沿いの渓谷にへばりつくように延びる県道を上流へ向かう。市街地を外れると携帯電話の電波が完全に途切れ、幾多のカーブでハンドルを切り続ける。車幅いっぱいの道では、植林した杉がガードレールの代わり。がけ崩れも珍しいことではない。道路事情は不安なことだらけだが、重機で削られていない山あいの風景は、私に高揚感を与えてくれる。車内の音楽を止め、自然の音を浴びたくなる豊かな渓谷。透明度が高く、勢いよく流れる安芸川。幾つもの流れ落ちる滝が、川に合わさっていく。車を進めるごとに、木漏れ日がさまざまな陰陽をつけ、道の表情を変えてゆく。鳥やシカが姿を見せたり、鳴いたりしている。市街地から40分。一気に空が広がり、ユズ畑と田んぼ、人家が現れる。畑山へ到着だ。

40年ほど前、林業で栄えた畑山には約700人が暮らしていた。けれど、国有林の無い畑山では、林業が廃れるのも早く、小松さんが小学生のころには急速に人が減り始めていた。入学当時、12人いた同級生も、中学生になった時には4人になった。中学を卒業すると、小松さんを含む4人全員が畑山を離れた。

「畑山を守りたい」。大工になった小松さんは、故郷へ戻り、畑山から仕事場へ通うようになった。一方で、青年団活動に熱心に取り組み、地域おこしに夢中になっていた。けれど、年下の世代が一人減り、二人減り……気が付けば自分が最年少になっていた。

そんなとき、「街へ出よう!」と切り出した父。反対した。「死ぬほど惚れた女が、どうしても畑山が嫌や言わん限り畑山からは出ん!」。800年以上続いたむらを簡単に離れることに納得ができなかった。「自己満足だけでなく、人が暮らせる畑山にしたい」。大工を辞め、畑山で生きる道を模索し始めた。シシトウやユズを作ってみたが、うまくいかない。どこにでもあるものを作っても、畑山という田舎では生き残れない。オンリーワンを目指そうと、平成元年、5世帯で生産組合を立ち上げ、高知県が採卵用の鶏として開発した「土佐ジロー」の飼育を始めた。畑山の小学校に児童がいなくなり、休校になったころだった。

今のようにブランド鶏には至っていなかったが、1個45円の土佐ジロー卵。売れない時期を過ごし、友だちに押し売りしたり、知り合いに配ることも多かった。すでに、先進地があり、いくら頑張っても後発にしかならない。雌では、無理だと考えるようになった。地鶏と言えば、全国的には肉。採算が合わないと言われた雄若鶏肉の飼育を始めた。

自然での放し飼いをイメージしたが、数十m飛ぶほど野性的な土佐ジローは運動量が多く、広い鶏舎では動き過ぎて肉質が固くなってしまった。運動量を抑えるためにはどうしたらよいか、元大工の腕を生かしながら、数年ごとに鶏舎を建て替えて改良していった。平成10年、ようやく小松式土佐ジロー養鶏の道を確立。鶏舎内に斜めに伸びる階段式の止まり木を設置し、運動量と生産コストがちょうど折り合う羽数だけを鶏舎に入れるようにした。土を食べて体調を管理することに着目し、土の遊び場に山や畑の土を適宜、足している。餌には、県内産の米や緑黄色野菜を与える。

試行錯誤の中、テレビの「どっちの料理ショー」や漫画「美味しんぼ」などメディアで紹介されるようになり、雄若鶏肉としての高い評価を得るようになってきた。土佐ジローを飼いたいという農家はいるものの、今でも雄若鶏肉の生産は、加工販売を早くから手掛けてきた小松さんの「(有)はたやま夢楽」だけ。関東や関西の料理店への卸売りやインターネットでの個人向け販売も手掛けている。そうして人を雇う規模にまでなったが、畑山に若い働き手はおらず、市街地から通って来てもらっている。むらの中で生きる難しさがある。

一方で、小松さんは6年前、安芸市が閉鎖しようとした温泉宿「畑山温泉憩の家」の指定管理者に名乗りを上げた。数十年前に個人が掘り当てた冷泉を生かした市営の温泉宿だが、当時600万円(年)の赤字を抱え、閉鎖対象となっていた。誰もが「無理だ」と言っていた温泉宿。小松さんが宿の運営を引き受けたその月に、私は初めて畑山を訪れた。桃源郷のようなむらの美しさに高揚し、初めて食べる土佐ジローのおいしさにお酒が進んだ。そして、これからのむらの在り方について、小松さんと夜更けまで語り明かした。

社会人になってからは年に1度、畑山を訪れた。私だけでなく土佐ジロー目当てに関東や関西などの都市部から、飛行機や電車を乗り継ぎ、レンタカーやバス、タクシーを使って畑山を訪れる人が増えていた。全国的にも珍しい雄若鶏のトサカやハツなどの肝類を刺身で提供し、モモ肉をこだわりの炭火で焼く塩焼きや、土佐ジローのガラで採っただし汁で作る親子丼が人気を集めている。宿泊やレストラン、温泉の利用客が年間5000~7000人。数年で赤字は解消し、市からの委託料もゼロの状態で、経営を続けている。人口40人の小さなむらに、希望の花が芽吹いていた。

そんな土佐ジローが起こした「奇跡」だけでなく、訪れる度に変わるむらの姿に驚かされてもいた。平成8年に廃校になった小中学校の校舎が図書館になっていた。高知工科大学と高知工業高校の生徒たちが協力し、レイアウトや展示用家具、本棚を製作。子どもたちの目線を持ったおしゃれな空間に、全国から寄贈された約3万冊の本が並んでいる。

そのほかにも、東京の京王プラザホテルのシェフを招いての料理イベントや交流拠点施設の建設、企業との森林づくり事業……。1200人いる遊子でできないことが、小松さん以外に若手のいない畑山でなぜできるのか。とにかく羨ましかった。

 保育園も小学校も中学校もない畑山。自分と同世代の人がいない畑山。ここ数年、幾度となく畑山での暮らしを思い描いては消していた。25歳の年の差を考えると、私も小松さんもお互い積極的にはなれなかった。けれど、同じ価値観を持ち、同じ夢を持てる人には、そうそう巡り合えない。眠れない夜も過ごしたが、小松さんのところへ飛び込むことを決めた。躊躇する小松さんを口説き、移住と結婚の話を切り出した。今度は、小松さんと暮らす畑山での生活を思い、胸が躍った。そして、わずか半月で入籍。9月末には、会社を辞め、畑山へ引っ越した。振り返ると、われながらすごいことをしてしまったと思う。でも、後悔はしていない。

引っ越してから2カ月余り。温泉宿の接客や掃除、土佐ジローの販売、イベントでのPR、会社の経理、家事…。慣れないことばかりで、ペンを何に持ち替えたのか分からないくらい慌ただしい日々を過ごしている。それでも、日ごとに紅や黄に移ろいゆく紅葉、太陽の傾きで色を変えてゆく山の風景に癒される。義弟や近所のおんちゃんたちが、マツタケやアユ、シカを差し入れてくれる。宿を切り盛りしてくれている料理人のお姉さんやお義母さんの作る山の料理、谷水で炊く畑山の米のおいしさに舌鼓を打つ。

月に一度、地元の人たちと誕生会と称して開く宴会も、また楽しい。水源をあてに山へ入ったり、タヌキの油を薬用にしたりする山ならではの暮らしの知恵が、私を、宝物を探し当てたような気持ちにさせてくれる。何より、遠路はるばる土佐ジローを食べに見えたお客さんの幸せそうな笑顔や、感嘆の言葉に嬉しさがこみ上げる。

夫との会話はいつも畑山の未来のこと。来てくれたお客さんに川遊びを教えたり、畑山で採れる土佐ジローやユズ、コンニャクを加工し販売してゆく。宿の周囲にそばを植えたり、シイタケを栽培したり、アマゴを飼う池をつくるなどして、交流イベントを開きながら、畑山ファンを増やしてゆく。畑山に関わってくれる人たちや、暮らしてくれる人たちと出会いながら、新しい畑山を創ってゆく。

「街があるから村がある。村があるから街がある」。大学時代、否定された言葉だった。けれど、今でも間違いではないと思っている。

これからは、山村の自律と自立を実践しながら、むらの存在意義を発信していきたい。これまで独りで頑張ってきた夫の思いや行動に、私の色を加えながら、少しずつ未来を切り開いてゆきたいと思う。


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